奇妙な店長の戯言部屋

百合好きオタによる妄想と百合の戯言な日々

ボクらとじいちゃんの6日間

こんばんは。
一週間以上放置してました。
なんかご心配をかけてしまったところも多々あり、申し訳ありませんでした。
まぁまぁ元気です。
普通に会社来てますし。




先日ブログでちらっと書きましたが、13日(土)から同居中の祖父が体調を崩し、14日(日)の早朝に救急車で運ばれ、緊急入院。
肺がほとんど機能していないため、酸素マスクをしていないといけないのに、一度咳き込んで苦しくなると、マスクを外してしまう祖父。
トイレに立ち上がるのも危ないので、止む終えずオムツをさせていたのですが、多少ボケが始まっているため、起き上がってはいけないということを忘れ、トイレに立とうとしたりします。
なので、祖母と母がつきっきりで看てないといけない状況。
看てはいても、苦しくなると訳が分からなくなり、暴れてしまう祖父。
最終的にはベッドに腕を縛られてしまいました。



15日(月)、自宅に訪問看護に来てくれていた女医さんが、病院で祖父の診断。
腕を縛られ、目をギラギラさせている祖父を見てびっくりしたとか。
もう助からないと判断し、病院に居ようが自宅に居ようが変わらないので、家に帰ろうと言ってくれたらしいです。
家に着いた途端、普段の温厚な祖父の顔に戻ったと母が言ってました。
月曜日は通常通り会社に行っていたので、状況は母に聞きました。




家に帰ってベッドに横たわる祖父を最初見たとき、正直引きました。
焦点の合っていない目で宙を見つめて、酸素マスクをして口をパクパクさせている祖父。
先日までのバカ言って普通に歩いていた祖父の面影がありませんでした。
でも手を握れば、答えるように手を握り返し、こっちの言うことに対して反応する祖父はいつもと変わりませんでした。
母と店長が両サイドから手を握っていれば、その手を高く上げ「せーの」と。
起き上がりたいから起こせと意思表示w
起き上がると苦しくなるからと言っても、何度も「せーの」言うので、母と一緒に祖父を起き上がらせる。
でもすぐに苦しくなって目を回してしまい、横にさせる。
何度かその繰り返しで、気づけば深夜。
翌日会社があるからと先に寝かされましたが、母と祖母は、祖父が酸素マスクを外さないように寝ないで見てないといけません。




16日(火)、朝5時前に母に叩き起され、祖父が危ないと大騒ぎ。
呼吸困難でパニックを起こし、家族みんなで祖父を抑えて呼吸を整えさせました。
前日の深夜に、一人暮らし中の兄も帰ってきていたので、男手があると非常に助かります。
少し前に仕事を辞めたばかりで、ニートとバカにしてましたが、今回ばかりは助かりました。
前の職場にいたままじゃ絶対に帰って来れませんでしたから。
なんとか祖父も落ち着き、担当医も大丈夫と言ってくれたので、午後から出社です。
夜はすぐに帰って、祖父のもとへ。
ずっと飲まず食わずでいた祖父ですが、口の中が気持ち悪いと水を飲みました。
ストローを吸い込む力もない、なんて言われましたが、ごくごく飲んでくれたので一安心です。
毎日のように「今日が峠」だと言われてましたが、正直そんな言葉を信じていいのだろうかって気がしてきます。




17日(水)、祖父の様子が気になるものの、仕事もあるので出社。
いつ休んでもいいように資料の整理だけはしておかなきゃいけず、でも祖父のことが気になり、全く仕事に身が入らない。
会社から家は遠いので、できるだけ早く帰ろうとしても、家に着くのは20時近く。
帰ってすぐに祖父の手を握ります。
母と祖母が少しでも休めるように、帰ってからの数時間は店長の番です。
手を握り、酸素マスクを外さないように何度も祖父に言い聞かせます。
たぶん、今まで祖父といた時間の中で、こんなに会話をしたことないかもしれません。
昼間の店長がいない間は、兄が定期的に見ていてくれたようです。
祖父のご指名で呼ばれ、体を拭いたり、口の中を洗浄したりしていたようです。
昔からおじいちゃん子だったので、この時くらい孝行してもらいたいものです。



18日(木)、気が進まないものの出社。
しかし会社に着いて早々、兄貴から「夕方まで持たないかもしれないから午後帰れ」とメール。
上司に祖父のことを伝えていたので、早退届けの準備と、金曜日の仕事の説明。
正直、前日に水を飲んで「飲めた?」と聞くと、指でOKサインをしていた祖父が急に体調を崩すとは思えませんでした。
お昼も食べずに帰ると、祖父は目をつぶったままで、母たちも今後について話し合ってました。
寂しがり屋で、家族と一緒にいるのが好きな祖父だったので、手を握りながら話しかけます。
母からは「話しかけても聞こえてないよ」と言われましたが、「みんなリビングにいるから大丈夫だよ」「そろそろ従兄弟たちが来るから」「夕方に先生が来るから元気な顔見せなきゃ」と話しかけるのを止めることができませんでした。
夕方、先生がやってきて酸素濃度を測ったら、普通の人と同じくらいになってました。
朝に測ったときは濃度が薄く、測定不能だったそうです。
だから店長、呼び戻されたんですが。
先生も首を傾げてるものの、「家族がいるから頑張ってるんだね。みんないてくれて幸せだね」と言ってました。



そして、19日(金)の朝に祖父は息を引き取りました。
7時44分、90歳の長い人生が幕を閉じました。
前日の夜、意識はほぼなく、目も開けてくれなくなり、手を握り返す力もなくなった祖父。
それでも酸素マスクを外そうとしていた姿が印象的でした。
ベッド用のテーブルを祖父の頭の近くに置いて、口元に手がいかないようにしたら、3〜4回テーブルに手をぶつけ、そのあとテーブルに手をぶつけないようマスクに手を伸ばすようになりました。
これには家族みんなで笑いました。
全然見えてないのに、しっかり学習してる!(笑)
最後の最後まで、じいちゃんはじいちゃんでした(笑)




やらなきゃいけないことが多く、まともに泣く暇もないまま、女医さんを呼び、葬儀屋に電話をします。
祖母が、祖父にスーツを着せたいと言ったので、看護師さんたちが体を拭いて、スーツを着させてくれました。
店長の父が亡くなったときは病院で、バタバタと看護師さんたちと母が体を拭き、葬儀屋が浴衣を着せたので、よく分からないまま葬儀が始まりました。
でも、今回は丁寧に看護師さんたちが家族みんなに手伝わせてくれたので、ゆっくりお別れができました。
できることなら父の時もこんな風にお別れがしたかったです。



お通夜が20日(日)、告別式が21日(月)に行われました。
ぶっちゃけ、お通夜と告別式のおもしろ話があるんですが、これ以上長く書いても仕方がないので、今日はこの辺で。



どっかの宗教パンフに載ってたと思うんですが、
「人は、笑顔の中で泣きながら生まれ、涙の中で微笑みながら死んでいく」というのがありました。
宗教のことはともかく、個人的に好きな言葉です。
涙を流してもらった分だけ、みんなに愛されていた証拠ですもんね。
父が亡くなったとき、九州に転勤中だった同期まで来てくれたらしいです。
たくさんの人が集まり、父がたくさんの人に愛されていたことを初めて知りました。
私も葬式の際にはいっぱい泣いてもらえるような人間になりたいです。
そしてできれば泣くのは、死んだ時とお通夜と告別式の3日だけにしてもらいたいです。
私のせいで誰かが悲しむのは嫌ですから。



なんか、祖父を見つめながら、中山可穂さんの「燦雨」(『花伽藍』収録)が何度も思い浮かびました。
店長は祖父のように子供や孫に囲まれて死ぬことはできませんから、せめて「燦雨」のように好きな人と手を取り合いながら、同時に死にたいと思いました。
まぁできることなら、子供や孫に囲まれて手を握ってもらいたいですけどね。



悲しいことではありますが、すごく幸せな6日間でした。